小林秀雄論

 昨年の7月に『小林秀雄 骨と死骸の歌――ボードレールの詩を巡って』という本を水声社さんから出しました。
 小林秀雄の最初期から『本居宣長』に至るテクスト群を、ボードレールを始め、マルクス、ドストエフスキー、中原中也らとの関わりで、フロイトやラカンの精神分析を援用しつつ読んだものです。
 序論に当たる部分から引用しておきます。

 しかし小林のテクストを読んで行くと、このように三段階の移行として理解された展開には還元されないような何かがあることに気付かされざるを得ない。より具体的に言えば、
このように理解された展開の図式をそこここで食い破るようにして、ある禍々しい一連の形象が顔を覗かせるのを見ることが出来る。「自意識」による批評から社会的・具体的細部を考慮した「本格的」批評、そして日本の古典作品を対象とする批評への三段階の移行として現れる批評の展開の裏に、様々に変奏されながら増殖する一連の骨や死骸の形象から成るある不気味な血脈が枝分かれし網の目を形成しつつ、最初期の「蛸の自殺」からドストエフスキーの「死骸」、中原中也の骨、南京「戰跡」の骨、そして戦後の「死體寫眞」との遭遇を経て最晩年の『本居宣長』に至るまで、見え隠れするようにして貫いている。そして、骨や死骸の代替的形象の連鎖と網の目を組織しつつ隠然たる力を絶えず発揮し続けることになるのがボードレール的「死骸」の形象なのである。

 例えば、全国の丸善やジュンク堂などに置かれているみたいですので、興味のある方はぜひ御一読を!
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