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詩人・福田拓也(前三田文学編集長)のブログ
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詩人・批評家として活動しています。
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『日本の起源』についてコメントを頂きました!

2018/02/12 18:34
拙著[『日本の起源』について読者の方からコメントを頂いた。ありがとうございました!
https://bookmeter.com/books/11721913
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私の詩「鏡山まで」と『日本の起源』について野村喜和夫さんからお言葉を!

2018/02/11 18:34
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野村喜和夫さんが、「hotel 第2章 no.41」に載った私の詩「鏡山まで」を拙著『日本の起源』とつなげて、高評して下さいました!嬉しい励ましを頂くと同時に、深い思考に刺激を受け、勉強させて頂きました。
http://blog.goo.ne.jp/sikyakukonngetunosi/e/aa84d83fc9c886c3d30333de6d8bda64
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私の『石の花』論の写真版です。

2018/02/07 16:54
杉中昌樹さんの「ポスト現代詩ノートvol.10」、大木潤子特集に掲載された私の『石の花』論の写真版です。『石の花』という詩集に興味をもたれたら、ぜひ読んで頂ければ、嬉しいです。
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私の大木潤子『石の花』論

2018/02/05 17:03
杉中昌樹さんの「ポスト現代詩ノートvol.10」、大木潤子特集に掲載された私の『石の花』論を、ちょっと長いですけど、ここに転載します。読んで頂ければ、嬉しいです。で、もし『石の花』という詩集に興味を持たれたら、そちらも読んで頂ければ!

大木潤子の詩集『石の花』の生成――証言と読解

 大木潤子三冊目の詩集『石の花』(二〇一六年)について、まず気付くのは、『鳩子ひとりがたり』(一九九九年)、『有性無生殖』(二〇〇二年)という小説に接近するとも見える饒舌な散文詩から極度に言葉を切り詰めた短詩形への変化だが、一緒に生活し詩についても語り合って来た者からすると、変化というよりむしろ一種の回帰にも思える。中学時代に中原中也の詩に出会って以来、中也の影響下にヴェルレーヌ研究に向かいつつ行分け詩を書いて来た大木であり、大学院時代の一九八七年から八八年にかけて一年間交換留学生としてパリに留学した際に書き溜めた詩も中也の影響下に書かれた抒情詩群といった印象があった。その抒情が現代詩以前だというのが本人の判断で、その抒情から距離を取るために行き着いたのが、最初の二冊の詩集のイロニックとも言える語りのスタイルだった。したがって、『石の花』に至って、大木本来の抒情詩がより深化した形で、しかも同時に全く異質なものとなりつつ発現したように私にはとりあえず思えた。
 このような短詩形は、私が大病で倒れた二〇〇九年以後、少しずつ試みていたようだが、「石」という素材と出会うことによって詩集の形が見えて来たような気がする。二〇一二年に大磯に移ってから、庭の一隅に敷く石を万葉の歌枕でもある近くのこゆるぎの浜に拾いに行ったことが何回かあった。ここから眺める風景は、一〇〇〇年前とほとんど変わらないのではないかと思わせる山と海と空と砂や石だけの始原的風景であった。石のことが詩語になりつつあったのは、このあたりからではなかったか。また、これも大磯に越して来てからのことだが、一日だけ潤子が石のようになっていたことがあった。別に動かなくなっていたわけではなく、普通に佇んだり動いたりしていたのに石のように見えた。「なんか石みたいだね」と言ったら、本当に石のような気分だという。その時は、これまで風に揺れる草花や柴犬のようだったことはあったけど、石は初めてだ、とうとう動植物の段階を超えて鉱物になる境地にまで至ったか、と舌を巻いた。今から思えば、ドゥルーズ流に言う「石への生成」が潤子の中で着々と進行しつつあったのだろう。
 『石の花』という詩集の生成過程について、私にできる証言はさしあたってこんなところだろうか。今度は、証言者という立場をひとまずは離れて作品自体に向き合いつつ、この詩集における詩の生成について考えてみたい。
 『石の花』を読む者が目のあたりにするのは、詩の言葉が、人間の言葉が、人間以前の太古、物質生成の場へと溯って行く稀な光景である。例えば、そこでは生成途上の石が紡がれる糸として現れる(「石はそこで、紡いでいた。」、「石を結ぶ」(一九頁)、「石/が石/の糸を吐/いて石/を紡/ぐ/」(五九頁))。ほとんど余白のみからなるようにすら思えるこの詩集に書かれているのは、石が波や風、光を内に蔵し、石が植物(花)でもあるような物質生誕の場、ほとんど言語化不可能とも思えるような、物質が完全に分かたれていない太古の物質生成状態である。「蒼い光と、碧の蔭とが時に、/交互に行き交い、縞目を描き、/自分が居るのは水底だと、/錯覚したかもしれない。//そよぐものがあった。」、「風のおと/石の/中から」(一二五頁)、「石のなか/に凝縮する光」(五五頁)、「石の花/笑う、//そよいで」(八七頁)。しかも、石の紡がれる場であり、水の中でもあるような物質生誕の場に、序詩にあるように、「自分」がいる(「自分が居るのは水底だと、/錯覚したかもしれない。」)。この「自分」はもちろん人間ではなく、人間誕生以前、物質生成の場に偏在する生命のような何かであり、この詩集にあって、生成状態にある「結ばれた石」としての「わたし」(「わたしは結ばれた石。」、一九頁)、であったり、「石の/息、」、「石の/眼差し」(五七頁)、「石の思考」、「石の中で/動く思い」(四七頁)であったり、あるいはそれは「石の声」(六三頁)、「石の歌」、「石の音楽」として現われたり、水の聞こうとする「光の歌」(七頁)として、「魂」として(「魂が、戻ってきて見ている、」、三五頁)出現したりする。
 とは言え、このような物質がほとんど分かたれていない、人類誕生以前の物質生誕の始原の場を書くのは人間の言語であり、詩の言葉である。詩語が物質生誕の場へと溯るために、あるいは手にした石を始原の場にまで導くために、二つのやり方、二つの書き方があると、この詩集は告げているかのようだ。一つは、「石の名を/石に/尋ねる」こと(七七頁)。それによって、「石が/語る」(八三頁)。石が「石の/言葉」で語り出すという奇蹟的なことも起こり得るだろう。また、次のような美しい詩句も書かれ得た。

  石の花
笑う、

そよいで

 しかし、たとえこのような稀な瞬間があったにせよ、人間の言葉は、石を名付けることによって、石を名付けるようにして石について語り石を書くことによって、始原状態の石を殺してしまうところまで行かざるを得ないであろう。人間の言語は、たとえそれが詩の言葉であっても、「石の名を/石に/尋ねる」だけでは満足せず、「石に/名を与える」ところまで行ってしまう。そして、「名をつける」ことは「ほうむる」ことである(「海の/小石のひとつ/ひとつに名/をつけてほう/む/る」、一二九頁)。そのとき、石は内に海を蔵するような生成状態にある石ではなく、「海の/小石のひとつ/ひとつ」に過ぎず、あるいは、積まれている石の「ひとつひとつ」に過ぎない(「石が/積まれている/そのひとつひとつに/名」、一三三頁)。石に名を与えることは、石に「死にな」と言うことでもある(「い、死にな、―――」、一〇九頁)。言語はそのようにして石に語りかけ、石を語り、言語化し、石に死をもたらす。石は「死ぬ石」(一一一頁)となり、ほどけつつ、「ほとけ」、つまり死者となる(「ほ、とける、」、一一三頁)。そのとき、石の「声」もまた「往く」、つまり石の中から出て行ってしまう(「声//石の/中から/ほ、と、か、れ、て、/往く」、一一五頁)。
 こうして、石についての詩を書きながら大木潤子が最後に行き着いたのは、「菫の灰、―――」(一三五頁)しかない極限の地点だ。物質が絶えざる生成状態にある始原の場とは対蹠的な、すべてが葬り去られ灰となった「何もない場所」(一三九頁)だ。しかしそれは、ただの灰ではなく「菫の灰」であり、同時に花でもある灰だ。そこに詩がある。というか、「菫の灰」こそがまさに詩そのものであると言えるだろう。そして、闇の中、「何もない場所で」、「一段一段、のぼっていく」ことが、それによって「闇に」(一四五頁)「石の花」を出現させることが、「石の花/咲く」と書きつけることが、詩を書くということに他ならない。『石の花』という詩集に集められた詩は、そこに書かれた物質生誕の場である世界の始原は、まさに灰の上に灰によって書かれたと言ってもよいだろう。
 このように考えて来ると、大木潤子のこれまでの詩業には、私が彼女の傍で生活しつつ考えて来た以上に深刻な断絶があったのではないか、と思えてならない。最初に書いたように、第一詩集以前の抒情が全く異質なものになりつつ回帰して来たというよりは、第二詩集以降の十四年の沈黙の間に潤子の声が徹底的に抹殺され、全く新たな抒情が「菫の灰」として、「石の花」として立ちのぼって来たと言う方が正確であるかもしれない。第二詩集『有性無生殖』の刊行された二〇〇二年以降の数年間、潤子は化学物質過敏症、電磁波過敏症を患った。PHSのアンテナの傍にあった江戸川台のアパートで、電磁波が無数の針金となって脳に入って来るような感覚に苦しみ、雨戸にアルミホイルを張り、遠くを走る竿竹屋のアナウンスに鍋を頭にかぶり半狂乱になった潤子を思い出す。あれから試練の何年もが始まったわけだが、その十数年の間、声の不在の闇の中を「足をとられて、/歩く」潤子の姿が、私が傍にいながら見たこともなかった潤子の姿が今再びよみがえって来る。

  闇が退き、
  あけ渡された場所がまた、
  闇である。
  波のように、
  次から次へと、
  暗さが寄せる、
  複数の闇。
  足をとられて、
  歩く。
(一一頁)
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大木潤子特集について

2018/02/03 14:20
杉中昌樹さんの「ポスト現代詩ノートvol.10」、大木潤子特集が充実している。充実した内容、鈴村和成先生を始めとする豪華執筆陣。なんと、憧れの朝吹亮二先生が詩を寄せている!ちなみに私も拙文を寄せています。『石の花』という詩集はもっともっと読まれていいという思いで書きました。あ、写真の詩は大木潤子のものです。
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くも膜下出血からちょうど9年!

2018/01/29 18:29
9年前の今日1月29日の夜くも膜下出血で倒れた。極度に気持ち悪くなって江戸川台の自宅の階段を登るときに見ているものすべてが右回りに急回転し、居間の床にうずくまって嘔吐した時が、自分の人生で死に一番接近した瞬間だったろう。世界的な気功師青島大明先生の電話施術で血を止めて頂き、一命を取り止めた。あのあと9年も無事に生きてきたことには感謝の念しかない。今日は、命の恩人青島先生への感謝の気持ちを噛みしめつつ妻とお祝いをした。もちろん死にそうなったお祝いではなく、助かったお祝いです笑。
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エリュアール論を翻訳中!

2018/01/28 11:34
 採点も終わり、掃除に精を出しつつも、エリュアール論の翻訳に集中している。これは、20年以上前に書いたエリュアールについてのパリ大学博士論文の10分の1ほどを、水声社の廣瀬さんにお話を頂いて、邦訳しているもの。
 ポール・エリュアールというと、シュルレアリスムの恋愛詩人でどちらかというと短めでやさしめの詩を書いたというようなイメージがあるかもしれないが、ぼくのやり方は、シュルレアリスム運動初期のシュルレアリスム的テクストを対象として、一見わけのわからないテクストをいわば真に受けて細部にこだわりつつ読んでみて、より一般的なシュルレアリスム的問題系や詩作についての哲学的問題提起につなげて、ひいてはエリュアールのイメージの修正をも迫ることをどこかで狙ったものだった。詩的テクストへのこのようなアプローチに興味を抱かれる方にはぜひ読んで頂ければ、と思います。
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詩集『惑星のハウスダスト』のゲラ刷り

2018/01/20 17:53
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この2月に水声社から刊行予定の
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詩集『惑星のハウスダスト』のゲラ刷りが届いた。25年以上散文詩を書き続けている詩人による100%pure現代詩です!
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なんと、私の文章が予備校模試の問題に!!

2018/01/18 16:27
いやあ、なんか自慢になっちゃいますけど、とうとう私の文章が予備校模試の問題になりました! SAPIXさんの中学3年生用模試「慶應志木校入試プレ」に拙著『尾形亀之助の詩――大正的「解体」から昭和的「無」へ』の一部が出題。この試験問題、たくさんコピーして大切にしようと思います。間違えて大学の定期試験でこっちを配んないようにせねば笑。吉増剛造氏絶賛、中高校生の国語力増強にも最適笑、『尾形亀之助の詩――大正的「解体」から昭和的「無」へ』、思潮社から好評発売中です!
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あけましておめでとうございます!

2018/01/01 13:20
あけましておめでとうございます。
昨年はお蔭様で、『日本の起源』と詩集『倭人伝断片』と2冊の本を上梓することができました。今年は、『エリュアールの自動記述』と詩集『惑星のハウスダスト』の2冊を刊行できるよう鋭意励んで行く所存です。大木潤子も1冊詩集を出す予定ですので、そちらもどうかよろしくお願い致します。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
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詩集『倭人伝断片』好評?発売中です!

2017/12/21 19:03
https://www.amazon.co.jp/倭人伝断片-福田-拓也/dp/4783735972
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『倭人伝断片』18日に発売です!

2017/12/14 10:31
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ついに12月18日思潮社から発売!『倭人伝断片』発売までいよいよあと4日となりました!本が売れないことだけには自信がある私ですけど、今度は少し動きそうな予感が! ちがうか笑。ぜひ御購入のほどを!
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家族、誤配、観光客―ー東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』

2017/08/25 09:22
 御恵送頂いていた東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』を読んだ。
 破産したリベラリズム、そしてその後を継ぐナショナリズムとグローバリズムの後に来るべき観光客についての思考を導き出す第一部の明快で緻密な展開に惹き付けられた。
 第二部は、独立した論文を集めたように見せながら、最後のドストエフスキー論が書物全体の結論になっているところに「誤配」の実践を見るような気がした。そもそも、哲学的な言葉が観光客について語る行為が既に「誤配」なのかもしれない。そして、観光客が「子どもたちに囲まれた不能の主体」であるところも。
 観光客、「誤配」、「家族」という概念を(もちろん「誤配」しつつ)持ってくることによって、他者論が往々にして無害というのみならず官僚的というかリバタリアニズム的なもの(?)にすらなってしまうという陥穽を避けるそのしなやかな仕草にも「誤配」的なものを見るべきか。
 このように、書物自体に様々な「誤配」が仕掛けられているように見えるところがとても魅力的だ。
 死に追いやられる単独者的なものに代替物が取って替わりに来る運動である「家族」、恐らくそのような運動が展開される「誤配」の空間、そしてやはりそのような運動を体現する観光客、これらの概念が、ナショナリズムとグローバリズム二層構造によって特徴付けられる現代世界について考える際に重要なものであることは疑い得ない気がする。
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アメリカと北朝鮮――戦争の危機

2017/08/12 16:28
 アメリカが北朝鮮を本気で潰そうと考えるとすれば、それは、北朝鮮の脅威を煽ることによって増大する兵器産業の利益と北朝鮮解体後の資本流入による利益とを秤にかけ、後者が前者を上回るという結論が出た時であろう。そして、北朝鮮攻撃に際して、朝鮮半島と日本を戦争状態に陥れ、そのことによって兵器産業の利益を増大させることも、日米の支配層が目論む北朝鮮解体の大きな目的の一つだろう。
 このような事態は、マスメディア的言説やマスメディアを主な舞台とする社会科学的言説によっては決して言語化されることはない。このような事態は、マスメディア的言説や社会科学的言説にとっての無意識のうちに留まる。
 それでは、このような根源的な事態が例えばマスメディア的言説によってどのように言語化されるのかと言えば、それは、擬人化・道徳化・フィクション化という相互に重なり合う三つの操作による。こうして、国際的ルールを守らず地球を混乱に陥れる悪い国、「ならず者国家」である北朝鮮を正義の秩序を代表するアメリカが自らと周辺諸国を守るためにやっつける、という唖然とするほど単純で幼稚な勧善懲悪的フィクションが、アメリカと北朝鮮に関するあらゆる国際問題報道の枠組みとして繰り返し機能し続けることになる。ここには、一国を、いい者であれ悪者であれ、一人の人間に譬える擬人化と、その人物たちを善と悪に振り分ける道徳化と、この人物たちから西部劇、ウルトラマン、仮面ライダー顔負けの勧善懲悪的ストーリーを作り上げるフィクション化という三つの操作が機能しつつ、北朝鮮存続の利益と解体の利益の比較・計算という現実を隠しつつ露わにしている。
 そして、マスメディアを通してアメリカ=北朝鮮関係について知ろうとする世界中の人たちの大半が、日常生活にあっては誰も信じないくらい幼稚な、擬人化・道徳化・フィクション化という三重の機能による勧善懲悪的フィクションという枠組みを通してのみアメリカ=北朝鮮関係(のみならずあらゆる国際関係)を解釈することになっている、というか解釈するように半ば強制されているというところに、今日の世界、国際社会を支配する言説的制度がある。
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hotel第2章no.40に詩が載りました!

2017/05/20 16:01
hotel第2章no.40に「惑星の塵埃(ハウスダスト)」が載りました。最後の部分がけっこう凄いという噂(?)です。ぜひ御購入のほどを! この詩の朗読も御覧下さい!
https://youtu.be/VQ2ZdFug1Vc

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1977年カントリーヒット・メドレー

2017/05/06 10:27
1977年のカントリーヒット・メドレーをYouTubeにアップしました。
曲は、Waylon Jennings - Luckenbach Texas, Don Williams - Some Brcken Hearts Never Mend, Mickey Gilley - She's Pullin Me Back Again, Larry Gatlin - I Don't Wanna Cryの4曲です。
https://youtu.be/1pzq2ieFAUQ
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関根謙編集長の三田文学、その後の展開 2

2017/04/29 12:08

 吉増剛造さんによれば、関根謙三田文学編集長は、このままだと火がついて大変なことになり、三田文学の名に傷がつくことを危惧しているという。しかし、関根謙三田文学編集長自身が唐突かつ強引な編集長交代によって三田文学を餌場とする三田文学会理事たちの間での利益供与の体制を確立したことで既に三田文学の名は傷ついている。関根三田文学の本質が「三田文学会理事たちの利益供与・利益分配のシステム、あるいはそれを目的として機能するシステム」でしかないものとなったことで三田文学の名は既に傷ついている。そして、この事態の責任は、私を三田文学編集長に任命し私の続投を主張していた吉増さんにではなく、100%関根謙編集長に帰せられるべきである。
 関根謙編集長がやるべきは、吉増さんに責任転嫁することでもなく、私の敬愛する吉増さんを動かして私を黙らせるなどという姑息かつ卑劣な手段に訴えることでもなく、私に批判されないような誌面作りをそれこそ命がけで死力を尽くして目指すことのみであろう。
 自身の著作を書評対象とすることによって自身の著作の宣伝に三田文学を利用したり、三田文学会理事やその周辺の人物たちに執筆機会を分配するようではお話にならない。関根謙三田文学編集長のそのような編集態度と吉増理事長の意思に反する強引な編集長交代こそが、今の三田文学の窮境を引き起こしたことを関根謙編集長ははっきり自覚し、逆風の中必死で良い誌面作りに励むべきだ。責任転嫁しつつ私を黙らせようと画策することなど、何の解決策にもならないし、三田文学のプラスにもなりはしない。
 関根謙編集長は、自身の保身を考えるのではなく、三田文学のことを真剣に考えるべきだ。
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関根編集長の三田文学、その後の展開 1

2017/04/29 11:35
一昨日、私の尊敬する詩人であり三田文学会理事長でもある吉増剛造さんと電話でお話しした。関根謙三田文学編集長が、私のツィートとブログを吉増さんの責任であるとし、そのことで吉増さんを非難しているとのことだった。
私は、「僕はもう三田文学とは全く関わりがない。関根謙編集長及びその周辺の理事たちが吉増さんの責任だと言っているそうだけれど吉増さんには何の責任もない。関根謙編集長及びその周辺の理事たちは自分たちがやったことの意味を考えなくてはいけないと思う。吉増さんは、『私は福田三田文学を続投させようとしたが、あなたたちが無理矢理辞めさせた。だから、自分たちで、福田に批判されない素晴らしい三田文学をつくってください』と彼らに言ってください」と、何度もお願いした。
「吉増さんが僕を連れて来て、それで、自分でいうのもなんだけど素晴らしい三田文学になった。それを関根謙編集長及びその周辺の理事たちが辞めさせた。吉増さんは三田文学に対していいことしかしていない。『私は素晴らしい編集長を連れて来て、彼を続投させようとした。このまま続投させれば三田文学の黄金時代になると思っていた。それを関根謙編集長及びその周辺の理事たちが辞めさせた。』と、公衆の面前で、言って欲しい。今回のブログ騒動の原因は全て関根謙三田文学編集長及びその周辺の理事たちにある。大勢の人の前でそう言えばみんなが納得する」と吉増さんを説得しようとした。
しかし、恐らく関根謙編集長及びその周辺からの圧力によるものだろう、吉増さんは、私に対して、関根謙編集長に関する私のツィートとブログを削除すること、少なくとも今後3ヶ月の間は三田文学についてツィートやブログを書かないことを要求し、私がこの要求を吞まないと、吉増さん自身が理事長をやめることになると仰有った。
結局、私は二点の要求を丁重にお断りすると共に、もし吉増さんが絶対理事長を辞めなければならないなら、ぜひそうして頂き、関根謙編集長の三田文学という腐敗した環境と縁を切って頂きたいとお願いした。すると、吉増さんは、「そう来たか」と仰有って笑っておられた。さすが吉増さん!
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関根謙編集長の三田文学 12(結論)

2017/04/16 17:17
関根謙三田文学編集長の編集する三田文学の本性がだいぶ露わになってきたようだ。関根謙編集長の目指す三田文学とは、三田文学会理事たちの利益供与・利益分配のシステム、あるいはそれを目的として機能するシステム、と定義付けられるであろう。私が企画・原稿依頼のほとんどすべてを担当した三田文学春季号漱石特集にあって、関根謙三田文学編集長が自身の判断・不手際等で私によって既になされた企画・原稿依頼・連載を切ることによって、関根謙編集長自身が原稿依頼することを得た書き手のほとんど全員が三田文学会理事である。

それは次の各氏である。

坂本忠雄(三田文学会監事)、加藤宗哉(三田文学会理事)、巽孝之(三田文学会常任理事)、粂川麻里生(三田文学会理事)、荻野アンナ(三田文学会理事)、庵原高子(三田文学文章教室講師)、櫻庭ゆみ子(中国文学者、慶應義塾大学准教授)ーー関根謙編集長自身の著作の書評担当
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関根謙編集長の三田文学 11

2017/04/16 17:14
唐突で強引な三田文学編集長交代と関根謙三田文学編集長の不見識・不手際・判断が原因で、三田文学春季漱石特集号から、保坂和志氏の連載、梅原猛先生の連載、岡英里奈さんと片岡周子さんの小説、芥川賞作家二人の小説、連載「三田文学女子会」、漱石特集の三田文学女子会鼎談が消えた。代わりに関根謙三田文学編集長は自身の判断により、庵原高子「夏の星」、そして追悼・三浦朱門を構成する坂本忠雄と加藤宗哉のテクスト、自著の書評、そして巽孝之、粂川麻里生、荻野アンナら三田文学会理事・常任理事らの書評を導入した。つまり、関根謙編集長は、編集長交代と自身の失策・判断によって、明らかにこれからの三田文学を支えていくはずの価値ある連載・掲載・企画をカットして、その代わりに驚くほど一貫して、三田文学会中枢あるいは周辺の人物たちのテクストを導入しているのである。このことによって、関根謙編集長の編集する三田文学の本性がだいぶ明らかになって来る。それは、三田文学会理事たちのための三田文学ということだ。

私が三田文学編集長として企画・原稿依頼のほとんどを行なった三田文学春季漱石特集号でさえも、私が編集長を続けた場合に実現したであろう号よりも明らかに質の落ちたものが関根謙三田文学編集長のもとで出来上がっている。もし私に編集長としての資質がなくてやめさせられたのであれば、後任には私より優れた編集長が来て冬季保坂和志特集号より優れた号を作ったはずであろう。しかしそうなっていない。むしろはるかに劣ったものが出来上がったとすれば、いったい何のための編集長交代だったのか。それとも、三田文学を餌場とする三田文学会理事たちの間での利益供与の体制が確立されたのであるから、目的は既に達せられたとでも言うのであろうか。
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